人生観や価値観はその人が育った時代背景の影響を多分に受けると思います。
地方の中小零細企業においてのあるあるで(大きい企業でもあると思いますが)、役員はみーーんな同じ名字で、別にシビアな経営判断をするわけでもない、なにをするわけでもない、実際なにしてんだろう?という現象。
労働者が人生の時間を削って生み出した利益を享受する役員。
(実際、法律違反してる訳でもない。法に則り享受しているのだ)
滅私奉公してきた従業員(しかし、役員になったりすることは、決してない)は、「俺たちが若い頃はもっと大変だった。今はずっと良くなったし、恵まれているよ」と過ぎ去った時のことを懐かしむように話す。
実際、そうなのだとは思う。
しかし、私はそれでも結局ところ、自分たちは経営者一族の為に働いている、ということに収斂すると思っている。
残業したり土日も関係なく仕事をするということは、一族の利益の為に自分の貴重な人生の時間を奪われているのだ。
個人の技量や才覚はまったく関係なく、たまたま裕福な家庭に生まれるか生まれないか、ただそれだけが命運を分ける。
私の方が適性や技能があるかもしれないのに、ある業務に就くことは出来ない。
これもある意味では仕方ないこと。
たまに見ているYouTuberがとても印象に残ることを言っていました。
「会社は何も出来ない30歳、40歳を生み出しても痛くもかゆくもない」と。
的を射る、とはこういう言葉のことを言うのでしょう。
むしろ、使う側からすれば労働者に余計な知恵なんて付けて欲しくないでしょう。
こき使えなくなるから。
仮に私が組織を抜けても、業務はなんだかんだいって絶対に回る。
そして組織が回っているうちは、一族の繁栄は揺るがない。
シビアな決断なんて出来るはずもないのに、たまたま環境に恵まれただけなのに。
人の世は、こんちくしょうだ、こんちくしょう。
非モテ労働者の戯れ言でした。
寝る。